寸時舎にて

福岡正信氏の自然農法に感銘を受け、農業に興味を持った。
畑が作れるような土地が欲しいと思っていた時、とんとんと
話が進んで山の中に200坪ほどの土地が手に入った。竹茫々
だった所を切り開いて、一年くらいでどうにか畑が作れるよ
うになった。ところが、今度は雨宿りのできるような小さな
小屋が欲しくなった。自分で作れるような気がしたので、作
ることを思い立った。そのころ、書についても、創造性につ
いて思う所があったので、書論と手作り小屋の成り行きを、
毎月発行している「淡遠」に書き下ろしてみた。結構面白い
ものだったので、ホームページに載せてみることにした。
「淡遠」に載せたそのままでは、面白くない所もあるが、多
くを手直すには時間がないので、軽くあつかう程度で載せて
みたい。        
1999.4.17  寸時舎主人 前崎鼎之

part1 書のこと

1992

top 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 1993 1994 寸時舎可否 中川農園



1992・1月                   no1 

 書家として書を学び始めてから、いつの間にか20年が経ってしまった。そして21年目を歩み始めている。それまで何もかもが書を中心に動いてきたのだが、去年あたりから気持ちの上で大きな変化が生まれてきた。書が人生のすべてだったのが、書は私の一部でしかないという実感が、様々な場面に顔を出してくるのである。このような時に書とは一体何であるかということを考えてみるのも悪くないだろうと思って、私なりの「書論」を書こうと思いついた。実際のところ学術的な話は苦手であるし、私自身そのことに興味を持っていない。要は如何にして人真似でない自分の書を書くかということ、そして、自分の書をかくとはどういうことか、どういう意義または価値があるかということを、私が試みてきたことや、これからやろうとしていることを見つめることで、目の前に展開してみたいと思っている。 
 今の私の中を占めているのは、私の生のこと、そして書のこととそれを豊かにする自然のこと、特に自然農法を営むことで自然との関わりを深めようと試みていること。ささやかな行為であるが想いだけは壮大である。その足掛かりとして一昨年から基山の山中の古屋敷というところにわずかばかりの土地を手に入れ、作物が育つように耕してきた。今年はそこに7坪ばかりの木造の小屋を建てようと思っている。友人の手を借りながら、自分の手で建てるつもりでいる。どれくらい時間がかかるかわからないが、一年くらいはかかるかなと思っている。書と小屋を建てることがどのように結ばれるかわからないが、基山でのことを織りまぜながら「書のこと」を書きたいと思う。いずれにしても貴重な紙面を私物化してしまうわけだが、書と自然、そして生活をそれぞれの部分部分に区切ることなく、全体の生としてとらえることができたら、無駄にはならないのではないかと思っている。
 
 初めに文字の役割にふれておこう。文字は思考や意思や経験を記録するために生まれた道具であること。言葉はその時で消えてしまうものであり、残った記憶も曖昧なのもである。正確に記憶するために言葉を形にした文字が必要になったのである。集団が大きくなれば益々文字が必要になり、文字を作り出した集団は、より広範囲に意思を間違いなく伝えることができ、大きな同一文化圏を構成することが可能になったのである。中国での最古の文字とされているのは、殷墟より発見された甲骨文字や青銅器に刻まれた金文であるが、その殷王朝(紀元前1,700年〜紀元前1,100年)の勢力は発掘当初に考えられた広さより随分と広範囲に及ぶもので東西1,000キロ、南北1,200キロをこえる地域に広がっていたことが、後の調査で判明した。文字だけが人と人とを結ぶ要素ではないが、大きな役割を果たしていることは確かである。
  ところで現在の中国は、簡略文字を使用している。漢字を習った者でも判読できない文字がたくさんある。中国は世界で一番人口が多く、異なった民族の集合体であり言葉もさまざまである。その国が日本の「いろは」に当たる表音文字がなく、一字一字に意味を持った表意文字を使用している。つまり生活に必要な漢字がどれくらいあるか知らないが、その多くの文字を覚えなくては、文字を自由に使うことができないのである。そこで覚えやすいように書体を変えたのであるが、文盲率のまだまだ高い現状をどうにか打開するために、表音文字を作ることも考えられているようだ。しかし、伝統を重んじる国民性が、そのことを困難にしているという。伝統とは何なのであろうか、私達も伝統には世話になったり、重荷に感じたりしているのだが、その実態をしっかり把握しなければならないと思っている。これからじっくり見つめていこう。


1992・2月                 no2   

 基山へは我が家から車で30分くらいの道のりである。県道5号線へ出て、南へ下り、二日市の三本松インターから右へ折れ山口を抜け、平等寺へとつづく山道を辿るのである。一昨年の今ごろの時期に初めてこの道をドライブした時は、こんなのどかな桃源郷のようなところがすぐ近くにあるなんて、と心を躍らせたことだった。まだ寒いなか梅の白い花が咲き,徐々に裸の木々がやわらかい色彩をよそおいだし土手の枯草がいつのまにか青くなり、山の斜面の桃の木に花がつく頃は、陽の光もやさしくおだやかで、ほんのりとしたあたたかさに包まれるのである。道沿いの聚落や、段々畑のあちこちに見える家の佇まいが、枝を広げた大きな木々とともに、古い時代の空気がそこには漂っているようで、のんびりとしてしまうのである。
 あの角を曲がるとあの景色が見えてくる、と思いながらいつも道を辿っている。山神ダムの桜並木を過ぎると、そろそろ平等寺の聚落。この道は平等寺から大きく左へカーブして、佐賀県の基山町へと下って行くのである。福岡県の産廃処理場を左手ににらみながら、下りになると基山の草スキー場へつづく細い道が見えてくる。そこからは曲がりくねった道を、対向車の音に注意しながら車を走らせ、いくつものカーブを過ぎ、桜の木が見えたらそろそろ目的地。四、五軒の古屋敷の部落を通り過ぎ、100メートルくらい進んだところが、私の隠れ家である。
 200坪くらいの広さのところに、エゴの木や栗やくぬぎやねむの木が枝を広げている。今は葉を落として休んでいるがそろそろ芽をつけようかとしているところ。狭い畑には大根、平べったい緑の白菜、たべのこしたかつお菜、育ちきらないほうれん草などが、クローバーや雑草と一緒に雑然と生えている。そして土地の半分くらいを、これから建てる小屋のために整地している。こんな気持ちのよいところが、よく手に入ったもんだと思うのだが、手に入れたいきさつも少し長くなるが紹介しておこう。
 
 もうずっと前から、自然の中で生活したいと思っていて、「どこかいいところがないかなあ」が口ぐせで、人に合えばそんな話をしていた。そこに以前から知りあいだった設計士の相原さんが、近所に木造の素敵な家を建てて引越してこられた。相原さんは丸い顔で丸い銀縁のメガネを掛け、ヒゲをたくわえいつもハンチングをかぶった物静かな方。歩いて2、3分のところなので、ちょいちょい尋ねて建築のことやらシトロエンというフランスの車の話などをよくしていた。そんな時「平等寺ってとこ知っていますか、今でも山の上に土俵を築いて年に一度奉納相撲を取るんですよ、とてもいいところですよ、いっぺん行ってみたらいいですよ」と聞かされた。
 平等寺には以前平等寺小学校という小さな学校があった。父がはじめて教頭として赴任した思い出ぶかい学校で、私も六年生の頃、泊りがけで遊びに行ったこともあった。懐かしさに誘われて、早速出かけてみた。当時は山の中の細い道を父のバイクの後ろに乗って辿った。随分と淋しい山道だったが、今はダムができて大きな道が通っており、あっという間に着いてしまった。小学校の校庭だった公民館の広場に車を止めて、あたりを散策した。学校のすぐ裏の土手で篠栗を取った記憶が、まだ焼きついているのだが、それにかぶさるような景色はどこにもなかった。まだそんなに昔と変わらない佇まいなのだが、やはり30年も経つと変わったところも多いんだろうと思いながら、あちこちと歩き回った。相原さんの言葉どうりの実に気持ちのよい空間が広がっていて、この近所に住めたらいいなと思いながら帰ってきた。
 この話を珈琲美美で報告した。すると森光さんが、ああ森光さんは『たんえんギャラリー』の写真を撮ってくれている、黒縁のメガネをかけて面長のいつも静かにコーヒーを点てている方で、自分の言葉でしゃべってくれる厳しくもやさしくもある方、今は英彦山に夢中である。その森光さんが「平等寺といえば基山の近くじゃない。最近見えるうちのお客さんの中川さんは、基山で養鶏をしながら自然農法に取り組んでいる面白い人やけん、一ぺん尋ねてみたらいいよ」と電話番号と場所を教えてくれた。そんな訳でまたもや早速、いつもは愚図ぐずして先送りするのに、この時はどういうわけかすることが素早かった。
 ああ、あと少しだがここまできて紙面がなくなってしまった。このつづきは来月号へということで一まづこれで。今回は書のことはかすりもしなかった。


1992・3月                  no3     

 山本周五郎の小説を読んでいると、田舎の描写がこまやかでふうっと情景が浮かんでくる。久し振りの基山に、そんな情景の一コマがよぎった。ちょっと車を止めて、ぶらりと歩いてみる。段々畑や、白い花をいっぱいつけた梅の老木、農家の庭先、基山ってこんなところだったのか、と大きなため息をつきながら早春の空気を思いきり吸い込んだ。そして、何とも清々しい気分で、中川さんの養鶏所「晩成舎」へ向かった。
 手作りの小屋でコーヒーのもてなしをうける。中川さんは思ったとおりの方だった。別に自然派を気取った風もなく作業用のズボンにジャンバー姿は、私は百姓じゃけんという言葉にぴったりだった。厳しい眼差しとこぼれる笑みが印象的。福岡正信の「わら一本の革命」を読んで、自分も自然農法を試みながら自然から何かを学びたいと思っていることや、書をやっているうちに、いつのまにかこんなところへ来てしまったことなどを気持ちよく話すことができた。それから中川さんが農園を営むために手に入れられた土地を案内してもらった。つつじ寺で有名な大興善寺の脇の細い農道を茶畑や柿みかんの段々畑を見ながら、登り上がったところだった。広い土地の見晴らしの一番いいところに、主みたいに立っている大きな榎が、上ってくる途中ずっと見えかくれしていた。榎の傍らに立ってつつじ寺の方を見渡すと、谷から扇状の空間が悠々と広がっており、開放的でなんともいえない眺めだった。今は整地のの途中で、これからどんな佇まいになるのか、とても楽しみだ。土地の脇に沢が流れていて、水車小屋の木組ができている。水車が作りあがったら電気を起こすんだと、中川さんの目は輝く。
 話を聞かせてもらっているうちに、私もすっかりその気になってしまった。自分の生活の場所が、もうすぐにでもできるような気がした。帰り際に、古屋敷というところに300坪で120万くらいの土地が、境界あらそいにうんざりしてほったらかしになっているので、よかったら世話しますよと言われた。その時は1000坪ぐらいは欲しいなあとか、隣の家とあらそっているのは面白くないなあとか、120万というのは何の単位だろうとか思って、はあ、そうですかという感じで聞き流してしまった。

 またお伺いしますということで帰ってきたのだが、車の中で、120万というのは全部でそうなのかなあ、そんなはずはなかろう。土地の横に境界あらそいしている隣の家があったら、こうるさくて何もできんやろうなどと考えながら、でもどんなところやろうと気になった。家に帰ってきてもそのことが頭から離れない。もう一度詳しく話しを聞いてみようと思い、次ぎの週にまた中川さんを尋ねた。それじゃ土地を見に行きましょうと案内してくれた。中川さんの水車小屋を通り過ぎ薄暗い杉山へと入って行く、えらく奥深いなあと思っていると、ぱあっと明るくなって、田圃が見えてきた。山頂につづく平等寺からの道にぶつかり、右へ曲がって50メートルくらいのところで車は止まった。小さなお茶工場があって、そのうしろの土地だという。古屋敷の地名からてっきり隣に人が住んでいるとばかり思っていたが、工場の他は何もない。これはいいなあと思って急な坂を10メートルくらい登っていくと
ここがそうですといわれた。竹が茫々とおい茂っていて全体の感じは何もつかめない。竹をかき分けながら中に入って行くと小さなプレハブの小屋が立っていた。蔦が無茶苦茶にからみついており、トゲのある木があったりで、苦労しながらぐるっと歩いてみたが、大きな木も何本かあったが、目につくのは竹ばかりだった。
 でも、いっぺんで気に入ってしまった。土地の値段も中川さんが以前交渉した時は、全部で120万ということで、今でも同じくらいじゃないかということだった。もう絶対に手に入れようと思った。持ち主は春日市の人だった。尋ねていくと140万でわけようと言ってくれた。一度尋ねただけで話は決まってしまった。珍しいくらいせっかちな方だったので、一週間後には登記もすんでしまった。中川さんを尋ねて一月もしないうちに今の古屋敷の土地が手に入った。今までやりたくてたまらなかったものを、狭いながらも思う存分できると思うとそれまで鬱積していたものがうそのように消えていった。実に晴々とした、新しい気分だった。
 
 これで土地を手に入れるの段は終わったのだが、この調子でいくといつ書にたどりつくのか、見当がつかなくなって来た。今回もまた書のことはかすりもしなかった。


1992・4月                  no4 

基礎の穴           
よく雨が降る。小屋はやっと水糸を張って水平を取り、土台を築くための穴を掘り終えたところだ。これからセメントを捏ねてブロックを積まなければならない。三月中にブロックを積み上げる予定にしていたのだが、暇な日に晴れてくれないので、なかなか思うようにならない。

 そこで書のことを考えてみた。書の道に本格的に入った頃は、書は文字を書くという作業を高度に精密化させ、普通の訓練では到達できないほどに熟達することだと思っていた。
今は、人という生命体の持っているすべてのエネルギーが溢れ出る時に、よい書は生まれると思っている。20万枚半紙を練習すれば一流になれるとか、30年くらい臨書すれば一人前の字が書けるという先達の言葉を真に受けて、ノルマを課して訓練した時期もあったが、思うに30年臨書したところで書けない人は書けないし、練習しなくても書ける人は書けるというのが書ではなかろうか。
 基本から学びたいと人はやってくるが、書の基本は生活に不便しない程度に読み書きができることだと思っている。それから先のことは技術の程度の差であり、感性の差であり、芸術という心理的問題の理解の深浅であると思う。普通基本という場合、用筆法の中の一側面を基本と名付けて、楷書の止め・はね・はらいを必要以上に重要視する傾向にあるが、このことがかえって書を小さな壷の中に押し込めてしまっているようだ。基本という言葉は、物事のよりどころとなる基礎と辞典にある。止め・はね・はらいなどは決して書のよりどころと呼べるものではなく、ただの飾りであること、あるいは一つの表現方法であるということを知ることが大切である。このように基本あるいは伝統と呼ぶものの中には、何の意義も無いものに対して大きな価値を付け、それを集団で支え批判するものを排斥するという、危険な要素をふくんでいる。それに呑み込まれると抜け出すのがとても難しい。無闇に言葉を信じて木偶にならないよう、つねに敏感に自分自身を活動させなければならない。このことがどんなに困難なことであるか、右往左往している自分をふりかえってみるとよく解るが、真理の世界、美の花園は自分の目で見る以外にどこにも有りはしないのである。
 機械に頼って生活を営む私達は、本来人の持っている運動能力や五感の動きが随分と鈍くなっていると思う。真理を理解することが私にとって一番大きな問題であるのだが、そのためには与えられた能力のすべての面で敏感でなくてはならないし、とてつもないエネルギーが必要だと思っている。自然の中にいて静かに訪れるものを観察し、そしてまた、生きていく上で必要な糧を直接自分の身体を動かすことで得ることも、人としての全体的なエネルギーを、より高めることになりはしないかと考えている。

  出来るだけ機械に頼らずに、山での活動をやってみようとの決心で、初めてやったことは鎌を買うことだった。厚刃のなた鎌を買ってきて、一昨年の三月の初めに山に入った。太い竹、細い竹が入り乱れて伸びており、なかなか大変だが、鎌の切れ味はよく、バサッバサッと切り開いていく。身体を動かすのが気持ちいい。久し振りに労働の汗をかく。少しずつ空間が広がっていく。時間が空いているときはいつも山に入って、せっせと鎌をふるった。刈り取った竹の束の上にゴロンと寝ころんでいると、鶯の声が遠くの方から、そして近くの木の上から聞こえてきた。

            山にいて  一人よろこぶ    
            ホーホケキョ

そんな時に浮かんだことばだ。自分一人だけで聴くのは、もったいないような気がした。竹を切り開くのは意外と楽にすんだ。一月ぐらいかかっただろうか。全体の様子が見えるようになった時には感激してしまった。名前も知らない色々の木が蔦にからまれながら沢山立っていた。土地の真ん中あたりにはどれくらい経っているのだろうか、木登りができるような木が、枝を大きく広げて立っていた。土地を手に入れたら色々の雑木を自然の姿のままに植えてみたいと思っていたのだが、思い描いていた以上のものが、そこには出来あがっていた。
 ところが楽しいことばかりが続くわけではない。ついに出会ってしまった。いつものようにジャンバーを栗の木の枝にひょいと掛けようとしたら、なんと蛙の頭をくわえた蛇が目の前に。こちらもギョッとしたが、あちらもびっくりしたようすで逃げようとする。が、食事の最中なので思うように動けない。私はズーンと鳥肌が立ったままジィーと見つめる。そのまま蛇もジィーとしている。私は蛇が大嫌いなのだ。


1992・5月                  no5  

 小屋は進展せず前のままである。仕入れていた材木を、中川さんの鶏舎の空き地に積み重ねていたのだが、保管の状態が悪く湿気てしまった。このままではカビが生えて腐ってしまうと注意され、その処置に手を取られてしまった。早速乾かさなくてはと思い鶏舎に立て掛けたのであるが、それを見た大工さんに、そのやり方だと日当たりがよすぎて、柱に割れが入ってしまうとまたまた注意された。見てみると3日間のうちに随分と割れが入っていた。屋外に長期間置く場合は、湿らないように土台を高くして、板や柱を重ねるごとに桟を敷き、すきまをとり風通しをよくし、雨がかからないようにトタンをかぶせるのが一番よいと教えられた。ビニールシートをすっぽりかぶせていたのだが、それだと風が通らないから木にはよくないのだそうだ。その作業を4月27日に中川さんや、淡遠の裏表紙に屋久島の縄文杉の写真を提供してくれた村山さんに手伝ってもらいながら、どうにかすませた。5月の連休には土台作りに入ることができるだろう。
 それにしても一つ一つの作業の大変なこと、材料が重いし大きいし、一人ですることの難しさを早くも痛感している。今のところ中川さんが小屋を建てているのを、私が手伝っているのじゃないかと思えるくらい世話になりっぱなしだ。書は何から何まで一人でやれるが、大工仕事は協同作業の要素がとても多い。これまで小屋作りについて教わったことは、設計で相原さんに構造材の大きさや、土台の方法、窓の大きさや位置の修正、外壁の張り方、などその他色々。作業に入っては水糸の張り方を中川さんに。ピラミットを作った時、水を張って水平を出したそうなのだが、建築では水平を出して建てる位置を決めることを水糸を張ると呼ぶ。猗嶂さんと一緒に、ヘェこんなふうにするんですか、といいながら、金鎚を持つ手もギコチなく慣れない腰つきで建物の位置が決まっていった。そして今回の大工さんに習った材木の保管の仕方。どの一つも大変だが、どれも面白いことばかりだ     
                             
                       
              菜の花
 今年で三度目のエゴ木の新緑が美しい。ほったらかしの畑には、白い大根の花、黄色い菜の花が一杯に咲いて、蝶々や蜂や虫たちがしきりに動き回っている。去年の春種をまいていた三つ葉がたくさんでてきた。小さな人参もそっと顔を出している。自然農法というより、今のところグウタラ農法。このまましばらく様子を見ようと思っている。山にいると、町にいるよりも生命力の旺盛さを強く肌で感じる。鳥たちもさかんに歌っている。なるほどうぐいすの声はよく通る。ホオジロもやってきた。私たちは美しいものに顔をそむけて毎日
を過ごしているのではないかと思われてくる。自然保護なんて言葉がよく生まれたものだと思う。保護されているのは人間の方だということが身にしみる。悲しいことに、人は自然を求めて山に入る、なのに山を壊しながら生活を営まなければならない。鳥や虫たちのように、そこにあるものを食しては生きて行けない。人は余計なものを随分と身にまといすぎてしまった。何が本当に必要なものかも解らずに、いつも飢えている。必要以上に飢えている。

 書を学ぶことも飢えを満たすためのものだと聞く。うるおいのない生活に一輪の花をそえるように、書の花を咲かせようと思うのだ。そしてその花の美しさを競い人に認めてもらいたいと思うのだ。それが趣味を生かした生活であり、情緒豊かな人間らしい生活なのである。果たしてそれが本当の飢えを癒すことになるのだろうか。真に豊かな生活なのだろうか。かえって飢えをふくらませることになるのではなかろうか。花を咲かせようと思う心は、欲望でいっぱいの状態ではないか。そのような心理状態のところへは、美の入りこむ余地はまったくない。体の飢えは食をとることで消えてしまうが、心の飢えは、何かを得ることで消えることはない。得た当座は落ち着くにしても、新たな大きな飢えがやってくるのである。これはくり返しながら限りなく続いて行く。うるおいのある生活は、常にあこがれとして目の前にあるだけで、現実のものには決してならない。
 書は飢えを満たすものではない。ただ、楽しくつき合えばよいのである。自分自身の目で、手で耳で足で、そして身体全部を働かせてつき合えばよいのである。学ぶことを、知識を受け入れより多く蓄えることとして、私達は教え込まれているのだが、人に頼らず、自分の目でよく
見つめ探求することこそ真の学びといえよう。自分をそのまま、生かすことができた時、人はうるおうのであろう。


1992・6月                     no6

 5月18日に山に行ってみると、もうそろそろかなと思っていたエゴの木に、小さな白い花が静かにいっぱい咲いていた。いつもの場所に椅子を持ち出して、山の様子を聞いてみようと耳を澄ますと、鳥たちの声にまじって背中の方からかすかにヴォーンという蜂の羽音が響いている。熊蜂の飛行がふっと浮かぶがメロディーが思い出せない。目の前の畑にはアザミの花が沢山で、紫の蜜を吸いに黒いアゲハチョウや羽根のすそに褐色の斑点のある黒蝶やアオスジアゲハが、トゲトゲのある花に止まっては、また舞っている。畑の雑草の中をジーッと目を凝らしてみると、色々の甲虫が忙しく動きまわっている。真赤な鮮やかな羽根を持った3センチくらいの甲虫が目の前をかすめる。細長い葉っぱに飛び移ってきた巾5ミリ長さ3センチくらいの茶色の甲虫は、綱渡りのように葉っぱの上の方へ上って行く。すると虫の重みで葉っぱは地面につきそうになる。また虫は戻って行った。何かエサをさがしているのか、それとも遊んでいるのか、ただ動いているのか、私には解らない。

 その日の私は、天秤棒にバケツを下げて、坂に築いた細い階段をしきりに上り下りしていた。そして6月になった今も上り下りを続けている。基礎に必要なジャリを敷くためである。それがすむと今度は、セメントや砂やブロックを運び上げなくてはならない。頭に描いている完成予定が一月また一月と延びていく。しかし延びのびではあるが確実に仕事は進んでいる。
 身体を動かすことは時に苦痛を感じるものだが、他人にさせられるのではなく自分自身でかく汗は、できた形以上のものをもたらす。ほんの少ししか前に進まなくても、何かしら自分の中で違うものが動きだす。これからやってくる、木の細工をするという華やかな面白さにくらべると、物をただ持ち運ぶ作業は単調できつい。すぐに息が切れる。ところが早くこの作業を終わらせて次ぎの作業へ移りたいという気持ちが起こってこない。先のことを考えてもどうにもならないから、少しずつ動くしかないか、と思っているのかもしれないが、何か違う充実感もある。
 この単調さは臨書とよく似ている。毎日毎日法帖をにらみながら何時間も書いていた。ラジオでも聞いていないと退屈で気が続かなかったのである。父に聞いたのであろうか「勉強をせねば偉くはならんげな、偉くない父遊びすぎたか」という言葉をお経のようにブツブツと口ずさんでいた。喜びも何もないただ書くだけの苦行をよくぞやったものだと思う。明日の自分が晴れやかな舞台に立つ姿を思い描きながら、もうすぐいい時がくる、いつかは偉くなれると、そのことばかりにしがみついて自分を励ましていた。大学を卒業してから11年間もそうやって過ごしてしまった。実に馬鹿ばかしいことをしたものだと思う。もの欲しそうな字はそのせいだろうか。今は作品を作ることが面白くないし、書けないでいる。たまに書いても気休めの字しか出来ない。自分がやって来たつまらないことの清算が、なかなか出来ないでいる。

 同じコツコツやるにしても、見つめるところが違うと、まったく別の世界が現れてくる。明日を夢見ることと、今のありのままを見つめることの違いである。明日を夢見ることは、頭で作り上げることなので誰にでも簡単にできる。だが、今のありのままを見つめることはとても難しい。昨日のことや明日のことは、頭が記憶したり連想したりして作り出した静止画像なので、いつでも取り出せるのである。ところが今は、常に今でなくなって行きながら、いつでも今であるので、頭で操作することが出来ないのである。だから、ただ見ることだけしか出来ないし、感受するしかないのである。そしてなぜ今がそんなに大切であるかといえば、それが真実の世界だからである。他はすべてが幻想である。


1992・7月                   no7

 梅雨に入ってからは、ほとんど仕事ができないのではないかと思っていたが、思ったより晴れ間があって6月は結構成果があがった。あと少しで基礎ができ上がるところまできた。地上に建造物らしきものが見えきて、何かもうでき上がったような充実感を味わった。コンク−リトを流して、その上にブロックを築いたが、骨の折れる仕事だった。甥の泰裕君が1日手伝ってくれた。彼は建設現場で5年間ばかり働いていたので、そろそろ俺の出番じゃないかといって、声をかけてくれた。
 作業は2人で向かい合いセメント1、砂3、砂利6の割合で混ぜてコンクリートにするのだが、「俺こんな原始的なことやったことないですよ。」「教えてやろうと張り切ってきたけど、初めてのことばかりで、教えることなど何にもない。」といっていた。天秤棒で砂を運び上げてもらったが「こりゃ、やおいかん」というのが彼の感想だった。次ぎの日にセメント1と砂3を混ぜたモルタルを捏ねて、ブロックの基礎を築いた。水平を取ったり高さを合わせたりするのが思いのほか難しくて、見るとするとは大違いを実感した。前の日は2人で捏ねたが、1人で捏ねるとなかなか混ざらない。背中がボキボキになったような気がした。やはり仕事は2人でしたがいい。、1人仕事の3倍ははかどる感じだ。その仕事も4日目になると初めほどきつくはなくなった。要領を得てからだの使い方に無理がなくなって来たのだろう。
 小屋を立てるところが傾斜地なので、独立基礎を14本立てるのだが、基礎の低い方の7本をブロックで、地表から80pくらいある高い方は、四角い補助マスを積み上げるようにしている。そして、あと最後の2本を残すだけとなった。となる予定だったが、29日30日の貴重な5週目の休みが、2日とも雨に流れてしまって、高い方の7本はそのまま残ってしまった。 
 草屋 草屋の溝 台所の食器棚 抽象絵画を思わせる
       
   
 写真のわら葺の家
[ 古美術緑青 連載「風の道」 草庵茶室の原風景  岡本光平 (マリア書房) より転載 ] は、韓国の昔ながらの一般的な農家で、草屋(チョガ)と呼ばれるものである。この写真を見て、凄いと思った。それまではある程度電気道具を使わないと、手ばかりではとても出来あがらないと思っていたのだが、この家の佇まいを見て、やっぱり手で作ろうと思い直した。そのように出来るはずもないのだが、手で作るものが持っている簡素な厚みは、下手くそな技術しか持たない自分でも、もしかすると出せるかもしれないという気がしたからだ。
 進歩する技術をすべて否定するつもりはないし、その技術を利用して楽な毎日が送れているのだから、単に批判することもできない。しかし、このままでいいのか、という思いはいつもつきまとっている。私たちは自然の秩序によって生きているし、生かされているものと思う。その微妙で広大な動きは、人知の遠く及ばないものであろう。ところで、電気ほど日常生活で役に立っているものはない。その電気が原子力発電という、とてつもなく自然にとって危険なもので供給されていることを考えてみると、便利だから大いに利用しようという気にはなれない。できるならば、そういうものは避けて暮らせぬものかと考える。自然の秩序を見つめる時、私達は自然の外で生きているのではないかと、思えてくる。  

 刻々と畑も姿を変えている。今は、野イチゴの葉やクローバー、すすき、立ち枯れているカツオナや雑草のなかにほったらかしていたジャガイモが、ひそかに白い花をつけている。そして5月に植えたトマトも元気に黄色い花と強い香りを放っている。もっと色々と植えればよかったと、残念な気がする。去年はきつつきの一種の何やらが木の上の方で虫をさがしているのか、よく木をつつく音がしていた。今年はまた違った鳥がこの頃目につく、それも地面におりたり、木の低いところで羽根をバタつかせたりして飛んだりする。多分、ダイコンの種や色々な種を食べたりしているのだと思う。畑の野菜や雑草の種類が、もっと多くなると色々な鳥や虫たちが集まってくるのじゃないかとたのしみだ。そこにはまたエサを求めて蛇がニョロリとやってくる。となるとちょっと厄介だが、しかし、自然を選り好みするのは自然でない、その時はゾォ−とするのが一番自然かなと思っている。


1992・8月                     no8

               

 やっと基礎ができ上がった。7月30日のことである。色々とミスもあったがどうにか形になった。これから軸組に入って行くのだが、解説書を見ながらの作業になる。どういうことになるのか楽しみである。基礎工事でこんなに手間取ってしまって、果たして本当に完成するのかちょっと心配である。

 小屋を建てながら創造性のことが気になった。今までやって来た作業は、私にとっては目新しいことであるが、建築にとっては何一つ目新しいものはない。教えてもらった知識であれ、本から得たものであれ、すべてが過去において形作られたものである。これから取りかかる作業も、伝統的な工法でやるから、とり立てて新しいものは何もない。これも過去の模倣にすぎない。過去の結果をもとにして新しい小屋が1軒建つだけの話である。確かに創作活動なのだが、そこに真の創造性があるのかは疑問である。
 では、書ではどのようなものを創作といっているのだろうか。まず歴史的な名作を模倣することから始まる。古典の模倣のことを臨書と呼んでいる。臨書で得た技術によって各人の書を作って行く。これを創作という。また、もう1つの方法として、師の書を模倣することで技術を養い、その技術で文字を書くということがある。この場合は臨書と呼ばずに、一応これも創作と呼んでいる。このような過程で創作と呼ばれる作品を制作するのだが、この場合、個人の創造性と制作された作品とは、どのような関わり方をするのだろうか。吸収された技術は個人の感性を通ってくる中で、まったく新しいものに作り変えられるというのだろうか。それでは私がやっている小屋作りと何ら異なるところはない。創造するという意味では、もう少し積極的な関わり方があるのではなかろうか。

 創造性は美と関わりを持つときに、初めてそう呼べるのではなかろうか。そして、その美しさとは一体何をさすのであろう。美醜の問題なのだろうか。私は、醜いものに対する美しさではないもっと大きな、美醜を超えた美があると思っている。そしてその美の探求こそが、創作活動ではないだろうか。芸術家にとって、美の探求は当然のことであるが、そうでない人にとっても人生の一大事であると思う。美を感じる力は、誰にでも備わっている。だが、自分自身の重要性に気づき美に対して常に敏感でなければ、美への感受性は鈍り、美しいものとは無縁の生を生きることになるだろう。美と無縁の生とは、人が営々と繰りかえして来た偏見と差別、嫉妬、憎悪、そしてきりのない快楽の追求、あるいは権力の追求と依存、果てしなく広がりゆく暴力であろう。これらとのいつまでも続いて行く葛藤こそ、人間だけが持つ悲しさなのである。この意識の鎖で繋がれた流れを今すぐに断ち切ることが重要である。そのためにこそ人は学ぶのではないだろうか。美の探求は創造の源であり、大いなる自立の学びなのである。
   


1992・9月                  no9

 この1ヶ月は何もしないうちに過ぎてしまった。やったことといえば、土台や柱のどこをどのように切り込みを入れればよいかという、1本づつの柱についての自己流の展開図を作ったことだ。これを作ったことで、継木や組木の方法がある程度解った。何ヶ所かどう組んでよいのか解らないところがあるが、解るところからかたづけていこうと思っている。そんなわけで作業にかかれるところまで来ているのだが、材木を現場に運ぶのが大変だなあと思いながら9月になってしまた。

 山の方が進展しないので、ペンの走りもギクシャクで何を書こうかと、あっちうろうろ、こっちうろうろ。そこで美についての自分のこれまでを、じっくりふり返ってみようと思ったのだが、書き始めると探求とはほど遠い超特急のダイジェスト版になってしまった。また折があればそれぞれ掘り下げたいと思うのだが、今日のところはこのまま加速したい。
 子供のころは無心に貪欲に美と関わりを持つものであろうが、残念ながらよく覚えていない。書に関わることでは、家に掛けられていた津金寉仙の扁額「定外禅」と「大器晩成」はいつもヘンな字やなと思いながら毎日見ていた。大学時代はクラブで熱心に書を書いていたが、とりたてて美を意識したことはなかった。卒業をして書家としてやって行こうと決心した時から、美という言葉を意識したのではないかと思う。それまで自分がやっていたことも含めて、書展はちっとも面白くないと思っていたので、絵でも彫刻でも何でも見て、書を面白いものにしなくてはならんと思った。それで暇さえあれば街に出て、美術館や書店を廻り、面白そうな美術本を探して歩いた。父の書棚もすべてひっぱり出してみた。そして「書品」という雑誌の中の津金寉仙の「日展作品」に出会った。これは凄いと思った。それからは津金寉仙の資料を集め、寉仙の言ったことで自分にできるものはすべて真似をした。寉仙が主宰していた「書藝大觀」は学ぶところが多かった。また、寉仙からの父宛の手紙を読んでいて、その中に書の上達の早道は審美眼を養うことだというのを見つけて一層見ることに力を注いだ。そのようにして見ているうちに、何かピタッと感じる作品に出会うようになっていった。 
 慈雲、良寛、大雅堂、米山、熊谷守一、会津八一、高村光太郎、棟方志功などは心をときめかせて眺めた。中国の書では、泰山金剛経、石門頌や西狭頌などの漢隷。李伯文書や木簡などあきずに眺めている。作家は顔真卿、懐素、何紹基をよく倣った。他に興味深い作家は鄭道昭、蘇東坡、陳鴻寿、金冬心、伊墨卿などがいる。まだまだ日本にも中国にも気になる書は沢山あるが、きりがないのでこれくらいにしておこう。

 卒業して間もない頃、目を高めるために古美術を見て歩こうと京都、奈良、そして良寛の故郷新潟を2ヶ月ばかりかけて、ぶらぶら歩き回った。その時知り合った友人から柳宗悦のことを教えられた。旅から帰ってきて父の書棚をみてみると、やっぱりあった。「柳宗悦選集」全7巻。一心に読み耽った。柳のことを語ると長くなるので、ここでは簡単に「非凡な天才の仕事よりも、民衆の日用雑器の中にこそ真の美が宿るとして、それらの手仕事に民芸(民衆的工芸品の略)という呼び名を与え、民芸運動を展開した人である。」とだけ紹介しておこう。その柳に心酔して、自分の目も柳が褒め称えたものの後を追うようになっていった。私は柳から実に大きな、そして多くのものを学んだと思っている。その一つに物の見方がある。柳の著書「心偈」の中にある象徴的な句を二つ紹介しよう。まず「今見マセ イツ見ルモ」は、物を見る時いつも初めて見るようなような気持ちで見ようということ。「見テ知リソ 知リテナ見ソ」これは国宝だからとか、だれそれが作った有名なものだから、古い時代のものだからというような、知識をもとに見るのではなく、まず、ただ見なさいといっている。そして、いいなあと思った物については、その背景を詳しく知ることが大切であるといっているのである。この事を大切にしながら世界の工芸品や美術品を、できるだけ沢山見ようと心がけて、美について学んで行った。と、いったところで紙面がなくなってしまった。私事、美の遍歴はちょうど半ば、後半は次回へ。


1992・10月                      no10

 多くのものを見ているうちに徐々に自分なりの、物についてあるいは美についての視点が、定まっていった。遡源というのであろうか、原初のものに出会うと動きが止まり吸い寄せられてしまうのである。絵でいえば装飾古墳の幾何学文様や狩猟の民が遺した壁画。焼き物ならば縄文や弥生の土器や、鎌倉・室町あたりの焼締めの大壷に豊潤な生命のエネルギーを感じる。木工品にしても、李朝の四方棚やイギリスのウインザーチェアーのように様式美を表現したものから、アフリカの荒削りに丸太を刻んだだけのハシゴや足付洗濯板などの方に、より強烈な美を感じるようになっていった。このことは、土の中で生き自然に抱かれながらの生活の、旺盛なそして単純な生命力に敏感になったということだろうか。

 ちょっと横道へ。書家として書を学び始めてから2、3年経って、良寛や光太郎や八一などの書に魅力を感じ出したころから、書家の存在に疑問を感じだした。つまり書家と呼ばれる人達の書にはちっとも感心しないで、書家でない人達の書に、素晴らしいものを見出すことが多くなったからである。もしかして書で飯を食っていたら、いい書はかけないのじゃないかと思ったのである。といって積極的に他の職業につこうとしたことは一度もないが、漠然と自給自足の生活ができたらいいなあと考えていた。そして今思うのだが、職業書家には決して感度の高い無限のスケールを持った書を表現することは不可能じゃないだろうか。心に及ぼしている書家の意識を棄て去ることができるかどうか、それが書家の大問題である。

 何が始まりだったのか思い出せないが、自然の大切さを考えずにはおれないことが、次々と私の中で起こってきた。子供が病気になった時、信頼できるお医者さんがいなくて、自然療法を知った事。アフリカの旱魃飢餓の原因が単なる気候の問題ではなく、世界の経済機構にある事。つまり、日本や先進諸国が貧しい国の分まで食べてしまっているという事実。チェルノブイリ原発事故。農薬づけのヘドロ状の農地。飽食による成人病。競争原理による教育を強いられた、小さな命の枯渇。地球温暖化、ゴミ問題、などなど。この止まることを知らない自然破壊の現状は、悲しいかな、より一層自然がかけがえのないものであることを教えてくれた。そしてその自然の恵みを、また人間の無力を知ることからはじまる福岡正信の「自然農法」に接した時、私の中であこがれでしかなかった自然が、現実のものとなっていった。
 福岡さんの自然農法は、人は何もしなくてよかったのだ、という「無為」を提唱する。草も取らない、耕しもしないで作物はちゃんと育つのだという。そんな馬鹿なと思うのだが、実際にその方法で充分に育っている。これは面白いと私も荒地に種を播いてみたが、そうは簡単にはいかなかった。まずは作物が育つ土壌を作らなければならない。化学肥料は勿論のこと有機肥料もやらない。自然の移り変わりを観察しながら作付けをし、雑草に対してはクローバーなどで対抗しながら豊かな土をこしらえてゆくのである。何もしないということが、とても大変なことなのだということが段々解ってきた。
 福岡さんの著書には「ワラ一本の革命」「自然に帰る」「自然農法」が春秋社から出版されている。読んでみるととても面白い。農業というのは、自然のことであり、生命のことであり、教育のことなんだと思えてくる。その中の話を一つ簡単に紹介してみよう。みかん畑を何の手も加えないで育ててみようと、それまで剪定していたものを剪定せずに放ったらかしにしてみた、するとそれぞれの枝が勝手な方向に成長して行き、枝が重なり合い、もつれ合って、とうとう畑は全滅してしまった。それで苗木を買って植えてみたら、これもまた同じような状態でだめになった。それならということで種から育ててみたら、何も手を加えずに立派なみかんが収穫できたそうだ。苗木が駄目になったのは、売り物の苗木が収穫しやすいよう背の低い姿に仕立てるため、すでに剪定してあったからだという。一度剪定すると、それをしないで放っておくと無秩序状態になってしまうのである。自然の状態で育てると、放っておいても成長のための秩序が保たれるということなのだ。このことは人の成長にとっても何か大切なことのように感じる。「自由」という、これからの社会にとって一番大切なものを、人が得る為の最初の一歩がどうあればよいかを示唆する話だと思う。

 私の美の遍歴、書から始まって、様々な物を通り、そして自然へと歩いてきた道のりを足早に紹介してみた。自然のことはまだ何も理解できていない。これから大いに学ぼうと思っている。


1992・11月               no11  

            完成予想図  

 10月の初め、山は旺盛な活動の時から、静寂の場へと時を移そうとしている。いつの間にか虫の羽音は聴こえなくなっている。それでも鳥はよくさえずっている。キェーンという響にハッとして顔を上げると、大きな鳥が小鳥を捕らえようとサーッと舞い下りて、目の前を過ぎていった。捕り物は失敗だったらしく飛んで来た方へともどって行った。あれは鷹の一種のツミという鳥ですよ。しっぽに鷹符が見えたでしょうと中川さんが教えてくれた。狙われた小鳥はどうもヤマガラらしい。今はいつもヤマガラがやってきてコツコツと木をつついている。去年は木に住んでいる虫を食べているものとばかり思っていたが、よく見るとエゴの木の実を食べている。嘴で実をちぎり、それを適当な梢に置いて、つついて殻を割って食べている。ヤマガラは栗色の腹で羽根は灰色がかった紺、目のまわりは白い色で、黒い帽子をかぶったとてもシブイお洒落な小鳥だ。エゴの実が落ちるまでは飛んできてくれるのかなあと、山へ行く楽しみの一つでもある。

 今は山へ行く度に、ノミをふるったりノコを引いたりしている。最上級の道具を揃えたのでサクサクと実によく切れる。ところが真直ぐに切ったり削ったりするのは、とても難しい。字を書いてもゆがんだ字ばかり書いている私だから、どうもキッチリとした仕事は苦手のようだ。まあこれくらいできれば素人にしては上出来だと、自画自賛しながら調子よく仕事を進めている。組み立てる時が恐怖だ。

 そして10月最後の日にやっと土台の切り込みがすみ、それを組み立ててみた。基礎に取り付けたアンカーボルトを通す穴が、なかなか真直ぐに彫れなくて苦労した。四隅や継木の部分がピタット収まらないで、あちこち隙間だらけ、しかし、どうにか恰好はついた。羽子板ボルトという補強金具で締めつければ、どんな台風が来ても大丈夫だ、と思う。コンクリートの基礎がポツンポツンと立っていただけだったが、その上に基礎を結ぶ土台が乗ると何だか建物らしく見えてくる。何かうれしい、ニヤニヤとしてしまう。仕事を終えて椅子にかけて耳を澄ますと、鳥の声が静かに響いてくる。黄色くなった栗の木や、山芋のツルや葉が目立ってきた。そろそろ寒い日がやってくるのだろう。エゴの実も落ちてしまって、ヤマガラのコツコツという音もしなくなった。
 なかなか小屋の形が出来てこないので、完成予定図を描いてみた。これまでの進展具合からみると、まだまだこの「書のこと」は書きつづけなくてはならないだろう。


1992・12月                no12

 今日11月30日は、青空の澄みわたった素晴らしい1日だった。朝から山に入った。大工仕事ではなく野良仕事で1日過ごした。私の土地の北隣は谷になっていて、4反ぐらいの広さのある田圃になっている。その田圃を中川さんと2人で借りることができて、今日はその初仕事だった。中川さんは小麦とはだか麦をそこで作り、はだか麦は強いのでほっといても育つだろうということなので、私も種を分けてもらい得意のバラ播きをやってみようと思っている。そこで田圃の整地の仕事を少しばかりやった。久し振りに土いじりをして気持ちのいい汗をかいた。中川さんは一家総出の畑仕事、奥さんとお母さんと3ヶ月の遊君の4人。私が小さかった頃にもこんなことがあったなあと、古いページをめくるように、のんびりとした1日が過ぎて行った。
 寸時舎(すんじしゃ)これは今建てている小屋の庵号だが土地の呼び名ともした。寸時舎の木々も大分葉を落としてしまったが、まだ赤い茶色や黄色い葉、うすれゆく緑の葉も残っており、日に照らされて微妙に輝いている。葉も落ちて明るくなった寸時舎の一角に、焚火用の石のカマドを作っているが、昼はそこの火でだご汁をご馳走になった。中川さんが石臼で粉にした小麦粉のだんご、それに山で見つけたという大きな平茸、ゴボー、大根、里芋、人参などが入った滋味豊かな味わいをいただいた。なんだか中川さんの生活を丸ごといただいたようでもったいないという気がした。

 小屋造りは、どうやって運ぼうかと前から気になっていた30×10cm角で4mある梁を2本と、その他の大きな材木4本を、文化研究会の芸洲さん義一さん王倫さん内藤さん吉田さん猗嶂さんの6人に手伝ってもらって、やっと運び上げた。これで一安心、大きなハードルを越えたという気がした。11月にやった仕事は、その事と床を支えるつかを乗せる為のブロックを地ならしをして並べただけだった。しかし着々と進んでいる?王倫さんは設計士さんだが、これほどしっかりしているとは思わなかった。これなら大丈夫ですよというお墨付きをもらった。
 
 あっという間の1年で、もう12月になってしまった。書のことについては素通りばかりして来たような気がする。とくに伝統についての掘り下げは、まったく手つかずになってしまった。皆が大事にする伝統の実体は一体何なのであろうか。伝統が重んじられることの中に、正しい立派なものを受け継ぐという考えがあるのだが、受け継ぐ正しい物とは何なのであろうか。伝統とは昔から受け継がれ重んじられてきた生活様式、表現形式や技術、地域的(民族的)精神をいうのであろう。つまり、伝統という実体は何もないのだが、何かを受け継ぐことによって伝統が生まれるのである。
 今を生きている私達は、個人を重んじ創造性を大切にしながら共存することを、実現しようと模索している。この取り組みが新しい世界秩序を創造するエネルギーになるはずなのである。ところがそうはならない。受け継ぐことが大切であるという教育がいたるところで行われるからである。書の場合でも、こう書かねばならない、にじんではいけない、かすれてはいけない、先生のいうことを聞かなければ上手になれないという言葉を、何度も繰り返すことで、限定された模範的技術や価値観を伝えるのである。技術のみを修得するのであれば何の害もないのだが、先生のいうこと聞いておれば上手になれるということも同時に学んでしまうのである。先生に対する依存心や安心感は、自ら学ぼうとする自発的エネルギーにブレーキをかけてしまうのである。このことがとても怖い。これでは新しいものは何も生まれてこないのではなかろうか。先生の仕事は、技術や知識を伝えることも必要であろうが、如何に学び手が書に興味を持ち、何の代償もなく自ら進んで学ぶようになるか、ということにかかっていると思う。 

 紅葉した無数の木の葉は、今、輝きながら果てようとしている。そして美しかったすべてのものが去った時、新しい命が新しい世界を創り出すのである。受け継ぐものがあれば、それは一つの木の葉のみであろう。


寸時舎可否  next1993