part1 書のこと1993
1993・1月 1993・2月 1993・3月 山のことも書きたいこともあるが、書のことを続けて書いてみたい。 昭和の3人が八一、守一、光太郎なら、江戸の3人は慈雲、良寛、大雅堂となろう。それに光悦や米山を加えて江戸の書展を催すなら、現代感覚というものが果たして何をさすのか、皆目解らなくなってしまうだろう。それほどそれぞれの生命は、微妙に大胆に研ぎ澄まされていて斬新である。現代感覚という言葉は割と気楽に使っているのだが、目の前に見えるように、それを言い表そうとすると難しくなる。当然流行というものとは一線を劃するものであろう。また現代の洋風化された空間にピッタリするということだけでも危ういものと感じる。今の文化をこれでよしと考える人は少ないのではないかと思うが、そうなると現代感覚を持つということが何なのか、益々混沌としてくる。現代感覚を物質的あるいは時間的観念でとらえようとすること自体、無理な話のような気がして来た。ただ、どこかに現代感覚はある。過去に閉じこもっていては見えないであろう。きっと、今を生ききることで見えてくる何かだと思うのであるが、どうであろうか。話が横道に少しそれたが、ともかく、慈雲、良寛、大雅堂、いずれも素晴らしい書を遺している。 先日、教室で書のことを話していて、良寛の話になったのだが、思いかえしてみると、書家としての私に一番大きな影響を与えたのが良寛のような気がするで、教室で話した良寛との出会いを紹介してみたい。 いつ頃良寛の書が素晴らしいという情報をえたのか忘れてしまったが、とにかく良寛の書を見たいということで25歳の時に新潟へ行った。良寛記念館や木村家で実物を見たが、その時はへえこれが良寛の書か、というくらいの実に頼りないものだった。良寛といえば、手毬つきの逸話などでふっくらとした優しい笑顔を想像していたのだが、どこか忘れたが庭の一角に立っていた良寛の像を見て、その顔立ちの厳しさに驚かされてしまいそちらの方の印象が残った。 それから数年経って、東京都博物館で良寛の書を見た時のことは今でもはっきりと覚えている。書の部屋へ入った途端、ハッと息を飲んでしまった。白と黒の得体の知れない画面が、遠くではあるがはっきりと目に飛び込んで来たのである。あれはなんだという感じで近くによって見ると、それが良寛の6曲2双の草書作品だったのである。この時のような衝撃をそれ以後味わったことはない。その感覚を引きずりながら書を学んできており、結局は良寛との縁が一番深かったと感じるのである。 良寛の書は、慈雲、大雅堂と比較すると、特定の先人を学んだ跡が色濃く残っている。唐の懐素(自叙帖)平安の道風(秋萩帖)がそれである。草書作品は自叙帖、仮名作品は秋萩帖と自叙帖が混ざり合って生まれたもののように目に写る。これに反して法語などの楷書作品は書の修練を否定したかのような不安定な結体の書を書いている。この楷書体に良寛の禅僧としての思想が現れていると思う。自分自身を大愚と呼び、僧侶としての地位や名誉には無縁に、国上山の五合庵という小さな庵でひっそりと歌を詠み、書を楽しむ文人三昧。山を下りては食を乞い、子供達と日が暮れるまで遊ぶという、気儘な独居生活は、自分の書をことさらに大きな存在に見せまいとする働きと同質の精神性の表れだといえよう。それだけに良寛の書は自由気儘に書いているように見えて、非常に理知的である。 南画の創始者といわれる大雅堂の書には、禅僧の持つ否定的な働きはどこにも感じられない。いいと思ったものは何もかも自分のものにしてしまったようなスケールの大きさを感じる。ただ私にとっては、この大きなスケールも多様な技術も心地よいものではあるのだが、絵かきは絵さへかけばよいとする気持ちが、何らかの形で限界をもたらしているようにも感じる。また、どことなく因習的なものも感じるのである。 慈雲の書は否定的ではあるが、そこに苦しんだ跡が見られない。学んではいようが学んだ跡も感じられない。「圓通」や「莫妄想」などを見ていると、面白い表現に出会って喜んで書いているような無邪気さが感じられる。慈雲の書には無限の広がりがある。 1993・4月 3月は何かと忙しく、なかなかゆっくりと山へ行くことができなかった。小屋作り、やったことといえば柱や板を山へ運び上げたくらいで、材木の切り込みはストップしたままだ。 2月のことだったが、山を下ってつつじ寺の近くまで来たところで、4、5匹のサルの1団に出会った。顔が真っ赤のあのサル達だった。一匹は小ザルを腰に乗せて車の前を悠々と横切って行った。車を止めて行方を見ていると、1ヶ所に集まってみんながそろうのを待っているのか、こちらの方を見ている。ボスなのだろうか、白っぽい大きなサルがいる。人と出会ったからといってあわてた様子は全然ない。じつにゆったりとしていた。一瞬現実の時間が止まったような気分になった。早速中川さんに報告すると、自分はあの付近をしょっちゅう通るのにまだ一度も見たことないと羨ましがられた。(この話の後、しばらくしてからこの付近は、農作物のサル被害の話でもちきりになる。) 山に行くようになって随分と色々な動物に出会うようになった。トットットという音に振り返って見ると、イタチがキョトンとした顔つきこっちを見ていた。車で山神ダムのそばを走っていたら、前の方に灰色のウサギがピョンピョンと出てきてあたりを見回し、道を横切って行った。ユーモラスだった。イノシシはまだ見たことがない。ミソサザイという日本で1番小さな鳥は、中川さんの小屋の中に入り込んでいたのをつかまえたことがある。片手の中に入るくらいの大きさだった。中川さんの所では、車にはねられて死んだタヌキも見た。今まで物語やテレビの中で見るくらいだった動物たちに生きいきと出会えるのは、やはり素敵なことである。 私が小さかった頃、鶏を飼っていたのだろうか。それとも分けてもらっていたのだろうか。 バァチャンが軒先に鶏をつるしていたのを覚えている。強烈な印象で残っているが、可愛そうという気持ちは余り起こらなかったようだ。それをスキヤキにして食べていた。黄色い卵は弟と競って食べた。 中川さんが卵を産まなくなった鶏を処分するので、正月のガメ煮にでも1羽もっていきませんか、ということだったのでいただいた。中川さんから鶏が可愛そうだから、食べるだけでなく、ちゃんと殺す人にしか分けたくないという話を聞いていたので、私も殺し方を教えてもらって鶏をさばいた。初めて鶏に包丁をあてた。その日、さばいた鶏を持ちかえって一部始終を子供達に話したら、「わぁ残酷、よう殺しきったねぇ、そんな可愛そうなことは不二美はできんよ」と大騒ぎ。でもスキヤキにしたら、この肉かたいねぇといいながらせっせと食べたので安心した。 動物が生きているのを横から見ていると、それはとても残酷に見える。強い物が弱い物を食べている姿はまさに弱肉強食だが、これは自然の摂理に従った食物連鎖であり、共存共栄の一断面なのである。ところが人間社会では弱肉強食が世の常とばかりに競争原理がまかり通り、弱者に対しては当然のように、横暴なことを平気でやる。そしてこれが自然の掟などと無智なことをいう。実に情けない教育が巾を効かせているのである。考える葦になったり、動物本能むきだしの狂獣になったりと、自分の都合で時に応じて適当な心理を引っ張り出してくるのである。透徹した目を持った人間を育てることが、知能の発達した人間という動物の当然の仕事であり、その事に全精力を注ぎ込まなければこの世は益々混沌としてゆくだろう。 さて、残酷にも鶏を殺して食べてしまったにだが、生きてゆくにはこれが当たり前のことで、今の私達の生活のように誰かが殺してくれたものを食べながら、自分は残酷なこととは無縁だと思っている現状は、生命感の失われたとても危ういものだといえよう。本当に残酷なのは必要以上に殺したり、美食のためであったり、食欲以外の欲のために殺したりすることである。どこかの学校の先生が子供たちと一緒にブタの解体をし、ブタがどのようにして食料になって行くのかを教えている、と聞いたことがある。残酷に見えるこのことが、どんなにか命の尊さを学ぶことになるだろうと、感心させられた。教育は知識を伝えることよりも、命の大切さを考え、感じさせることの方がもっと大切なのである。しかし、この教育は知識を伝えることに比べてどんなに難しいことか。「命は大切なものです。動物や花を可愛がりましょう。そして皆も思いやりの心を持ちましょう」と言葉を繰り返すことは実に空しい。 もう4月、あわいみどりの時、山へ出かけよう。そして言葉ではないものをみつけよう。 1993・5月 寸時舎も4月になると、木々の若葉が初々しく顔を見せ始め、日一日と様子が変わって行く。えごの木が小さな葉っぱで覆われだすと、栗の木やこならの木が若葉を見せ始めた。こならの木の白っぽい葉の裏側を見せて垂れ下がる姿は、なかなか面白い。 去年の畑は菜の花で満開だった。今年は白菜が一つだけ、何本も茎を広げて黄色い花を見せている。そして4、5本の小さな大根の花がチョコンと咲いている。去年の春に落ちたあの沢山の種はどうなったのだろう。今年もいくらかは見を結ぶだろうとという淡い期待はあっさりと裏切られた。今頃は虫達でいっぱいだったのに、蝶も余り見かけない。元気がいいのは野苺だけだ、とうとう一畝を占領してしまった。白い花をつけている。苺ジャムを作ろうと、沢山実をつけてくれるのを今から待ちかねている。 4月21日に久しぶりの雨が降った。草たちも待ちかねていたように顔を出し、花をつけてきた。レンゲ、スズラン、スミレ、名前を知らない小さな花が、紫や黄や白と可憐に咲いている。今日4月27日は青空だった。朝から弁当を持って寸時舎へ。山の緑が鮮やかに輝いている。青い緑、黄色い緑、白い緑、淡い緑に濃い緑と、どれもが爽やかに息づいている。寸時舎の春は今が一番の見頃かも、もう少ししてえごの木に白い花がいっぱい咲く頃もまたよい。1本の柱の切り込みを終えたあたりから、とても小さな雨が降ってきた。向こうの山に霧がかかり、とても静かな気持ちになり、しばらく椅子にかけてボンヤリしていた。鶯の声が渡り黒と白の小さな鳥が、木立に立ち寄っては飛んで行く、かえるの声も聞こえてくる。緑は静かに輝いている。 4月はとても仕事が進んだ。晴れの日が続き、11日から18日までは毎日出かけた。昼から教室がある時は朝早く出かけた。それで切り込みも随分と済ませた。といってもあと3分の1くらいは残っている。6月までに棟上が出来たらいいなと思っている。 ノコの使い方もだいぶ上手くなってきた。ノミの方はなかなか垂直がとれない。それでも長時間叩いても腕がだるくなるということは、なくなってきた。力の入れ方がよくなってきたのだろう。問題はカンナである。柱を1本だけ削ってみたが実にひどいものだった。時間はかかるし、表面はデコボコで削らない前の方がかえっていいくらいだった。それで今回はカンナを使わないでザラザラの表面のままで仕上げようと決心した。こう決心したのには1つのきっかけがあった。24日の日に「あまねや工芸展」での中本さんの織物の展示会に出かけた。そこで中本さんと山小屋の話になって、カンナをかけるのがこれまた大変で、といったら、カンナかけなくちゃいけないんですかと尋ねられた。その時は大変でもどうにかしなくちゃと思ったのだが、家に帰ってきてもカンナかけなくちゃいけないんですかの声が聞こえてくる。それで、その手も悪くない。かえって面白いかもしれないと決心したのである。元々スベスベに磨かれた木目より、ノコ目や手斧で削ったザックリしたものが力強くていいと思っていたのである。以前個展をした時に目のつまった上等の杉板を削らないまま、中を刳りぬくだけで額に仕立てたら、調子のいいものが出来た。もっともこの時は、額を作ってくれた幹太さんから、今度はもうちょっと腕の見せられるものを作らせてくださいといわれてしまった。外壁は初めからカンナをかけるつもりはなかったのだが、室内は手でさわるので削った方がいいと思っていた。出来あがりはどうなることやら、これでまた楽しみが一つふえた。 書も洗練されたものばかりが善いわけではない。爨寶子(さんぽうし)などはガキ大将が書いたような字である。それが何ともいえずよいのである。同じ時代の典雅な王羲之(おうぎし)と比べると興味深い。どちらがよいとはいえないが、色々な字があることは楽しいことである。忘れていたが中本さんは「羅双樹」という工房で木綿布の制作をしている方。根っこの方から織物を見つめ、古いよいものを如何に新しいものとして、今に生かせるかを苦心している頼もしい女性である。 1993・6月 5月の終わりか6月までには切り込みが終えて棟上ができるかもしれないと思っていたが見通しが甘かった。せっせと寸時舎へ通っているのだが、まだまだ棟上は先の先になりそうだ。それに柱の切り込みミスをしてしまった。そのミスした14本の柱の手直しに3日かかった。手直しできるミスだったのが不幸中の幸いで、柱を無駄にせずにすんでよかった。 寸時舎のえごの木も、今は盛りも過ぎて、地面いっぱいに白い小さな花を散らしている。木々のみどり葉も厚みを増し、畑の草叢も鬱葱としてきた。なにか得体の知れないものが、足許から出てきそうな気がする。野苺は大きな実をつけているがジャムにできるほど多くはない。今年は花をつける時季に霜が下りて、どうやら不作の年らしい。それでも目で楽しむ分には充分で、緑にかくれて見える赤い実はとても清々しい。 田川の藤井月兎さんが手伝ってくれるというので、まだ中川さんの所に残していた垂木と胴縁になる材木を運んだ。1人でやれば3日はかかるところを1日ですんでしまった。材木の重さよりも、急な坂道を何度も上り下りすることが、とてもこたえるのである。2月に柱や板を運び上げた時は、その後肩がとても凝ってしまった。首が回せないくらいで、今でも首を回すと肩や腕がピリピリとする。月兎さんのおかげで、今度は楽に運び上げられてよかった。昼食はカマドに火を入れて冷凍のうどんを温めた。所が月兎さんが奥さんの手料理の弁当とビールを持ってきてくれてたので、豪華なものとなった。丁度その時、寸時舎相談役の相原さんが、花を取りにきたとひょっこり見えた。一緒にビール片手にえごの花散る中、鳥のさえずりをを聞きながら、のんびりとした山の一時を楽しんだ。 今月は書のことがまとまらなかったのでこれまで。 1993・7月 いよいよ梁の切り込みにかかった。15×10pの方はすませて、あと30×10pのものが2本残っている。梁は米松というアメリカ産の松を使い、桧にくらべると随分とやわらかい。ノコもあっという間に切れるし、ノミもスポスポという感じで入っていく。強さは大丈夫かなと心配になるくらいだ。カンナでの仕上げはしないことにしていたが、槍ガンナを持っていたことを思い出した。名前の通り槍の形をしていて、珍しい道具なので少しは使ってみようと、梁だけは削ることにした。普通カンナといえば台ガンナのことだが、台ガンナが使われ出す以前は、槍ガンナで表面を仕上げていた。法隆寺や薬師寺など飛鳥の建造物はすべて、槍ガンナを使っていたのだ。台ガンナで削れば表面はまっ平らになるが、槍ガンナだと波を打ったようになる。私の槍ガンナは反りの強いものなので波が深めに削れていく。25pの梁が結構面白く仕上がった。材木もやわらかかったので思ったより楽に出来た。杉も削ってみたが、こちらは逆目が出て米松よりずっと大変だった。槍ガンナを使い慣れた人が使うと、私が削ったものとは比べようがないくらいに美事に仕上がるのかもしれないが、私のもまんざらではない。槍ガンナの方が台ガンナに比べ、素人にとって使い易いのではなかろうか。台ガンナは台の調節や刃の研ぎが微妙で、とても面倒くさい。元々水平な面を作る為の道具なので、使い方が下手で凸凹になると、とても見苦しく感じる。槍ガンナは面を水平にすることなど不可能なので、少々下手くそでも気にならない。そんなところが私の性に合っている。 大工仕事は研ぎが日課になるくらいで、刃物を研ぐことが大変重要になる。そしてこの研ぎが難しい、私は下手くそで研いだ面がどれも丸くなっている。研ぎがキチンと出来ていると、力をかけなくても切れるし、ピタッと直角がとれる。下手くそだとその逆で大汗をかいてしまう。そして見映えはモタモタするのである。見映えはどうでもいいのだが、強度が心配になる。ピタッと収まらずにグラグラになる。 だが研ぐのは、やってみるとなかなか面白い。仕上げ砥石をかけると、美事に輝いてくる。砥石には荒砥、中砥、仕上砥の三種類がある。刃こぼれがひどい時は、荒砥をかけて中砥、仕上砥になるが、普通は中砥をかけてから仕上る。子供の頃は肥後守をポケットにいつも入れていた。柳の木でゴム銃を作ったり、刀を作ったりしていた。その頃使っていた砥石は、鎌を研いでいたので表面がなだらかにへこんでいた。砥石はそれでかまわないのかと思っていたが、直線的な刃物を研ぐには砥石の表面はキチンと水平になっていなければ、きれいに研げないことを始めて知った。研ぐ時には砥石が水平であることを確かめてから始めるのである。ところが槍ガンナは刃が弧を描いているので、砥石を弧に合わせて削らなければならない。私が持っている槍ガンナは、もう作り手が無くなってしまった貴重なものなので飾っておくだけでもいいと刃物屋さんからいわれた。もし砥石をかけるのなら天然の上質の仕上砥でかけんといかんともいわれた。ちゃんと研げるのかどうかも解らないし、もったいないなと迷ったが、ただ飾っておいても面白くないので勧めてくれた砥石を買った。うまくできるか心配しながら砥石の表面を刃の形に合わせて丸く削った。研いで見ると初め心配したよりは簡単に研げた。早速山で梁を削ってみたが、刃当たりの悪いところがあって、あまりうまくは研げて無かった。帰ってきても一度砥石をかけたが、それからは雨がふりつづけるのでまだ切れ味は試していない。 それにしてもよく雨が降る。梅雨らしい梅雨である。「緑が爽やかだ」と悠然と雨を楽しみたいところだが、そんな心境とはほど遠い、ちくしょうの雨だ。大工仕事は小降りの時でも出来ないので、雨の時には草刈が一番と鎌を持った。ほったらかしの畑は雑草の天下。植えていた玉ねぎはいつの間にか姿を消し、大根は大根にならずに花をつけてしまった。竹も出てきたし、このままではどうしようもないと草を刈ってみた。葉のおい茂った木立の下にスッキリとした広がりが出てきて、清々しい気分である。生きいきとした雑草を見て自然が豊かだと楽しみながら、それでいて刈ってしまうと、きれいになったと喜んでいる。実に身勝手なもんだと思う。自然とのつきあい、まだまだこれから。 1993・8月 江戸の3人を紹介した時に「否定的な書」という言葉を使って良寛、慈雲、大雅堂の書を紹介した。否定的な書の意味がよく解らないという質問を受けたので、否定的ということについて考えてみたいと思う。 書の心、仏の心、あるいは愛と呼ばれるものも元々は同じものであると考える。書のすべてを理解することは、不用意に使われるこの「心」についての洞察を行うことが、とても大切だと考えている。これはとても微妙なものなので探求するには、自主的な細心の注意が要求される。 書にかかわる人々を見ていると、「書の心」という言葉はよく使うのだが、心の実体を観察するということは余り行わない。その点仏教では心をつかむのが目的の修行なので、書家に比べるとより真剣に行われている。しかし歴史的には、経典の研究や布教活動に重点が置かれ、心の探求は見かけほど深くはなされていないのが実情のようだ。仏教でも禅宗には「不立文字」(ふりゅうもんじ)という言葉があって、経典や言葉によらず心の実体をつかむことを重視する。しかしこれも「不立文字」という言葉はあっても仏心をつかむ人はとても少ないと聞いている。僧侶の良寛や慈雲がその心とめぐり逢ったのかどうか私には解らない。しかし、心の探求に対してとても真剣であったことは、書が現しているものから感じることができる。 心のことを考える時、聖者が何を言ったかを知ろうとしたり、心理学者の研究書をよみあさりながら真髄を知ろうとはするが、決して自分の心を見つめながら心のことを理解しょうとはしない。ありがたい言葉も、仏と呼ばれているものや、伝統のように当然正しいものとして受け継がれてきているものも、はいそうですかと簡単の信じるのではなく、本当はどうなのかと疑ってみる、否定してみることが大切である。そしてことの真偽をたとえ不安で頼りなくても自分の目で見つめることが、自主的で自由な行為であろう。また、そうでなくては決して心の実体に触れることは出来ないのである。 書を学んでいると様々な知識が入ってくる。書体、筆法、著名な作家や作品、それにまつわる逸話。これらのことを沢山知っている方が立派な書が書けるかといえば決してそうではない。知らなくとも立派な書は書けるのである。知識量と書の美しさは関係が無い。知識と自分との関係が大切なのである。書の歴史も知り、漢詩も勉強し、墨のこと、紙のこと、筆のことも充分に知り尽したから自分は立派な書が書けると思うことが至らないのであり、自分は何も知らないから書が書けないと思うことが至らないのである。 書の知識とは別に私達は、周囲の意思によって大いに動かされている。物事の真理をつかむのに、この自他を分別する自意識、自我はとても厄介な存在になってくる。自分が立派な書を書く人間であることを周りに知って欲しい、また認められたいという意識が問題である。書家の場合、書の魅力に惹かれて学び始めるのだが、いつの間にか認められる為に精進し努力を重ねるのである。これは書家として当然のことで、どうしてこのことが悪いのかと反論したくなるが、これが書家の限界を生むのである書家の意識はここまでのことしか出来ないのである。これが疑いようにのない現実である。 私達はこの現実にしっかりと目を向けて、自分が楽しく書いているだけではなく、書を学ぶことによってついてくる地位や名誉やその他のものを、獲得することが喜びとなって書いているのだ、と言うことをしっかりと観察することがとても大切である。そして本当に書にとって大切なものはなにかを見出すために、必要でないものを一つずつ否定していくのである。この行為こそ自分が変わるという大いなる変革をもたらすのである。 ありのままの自分を認識せずに自分をごまかし、書は無心で書くものだとか、芸術は永遠だとか、心不競といくらいったところで理想論でしかありえず、実体は元のままの人を押しのけ、人を利用し、ねたみをかかえた人間でしかないのである。私達はそれが人間というもので、自分ではどうすることもできないといって慰め、そのことを肯定してしまう。それでは何も変わらない。人間はそんなものでいいはずが無い、と否定するところから新しいものが生まれてくるのである。そして、それができるのは誰でもない、自分自身、私だけではないだろうか。 1993・9月 雲がくれしていた太陽が、8月の終わりになってやっと姿を見せてくれた。照りつけるその輝きは、私に大きなエネルギーを与えてくれる。 棟上の準備で材木を移動したり、床がたるまない為のツカを立てたり、根太を取り付けたり、防腐剤のクレオソートを塗ったり、土台の四隅を補強し建物の捻じれを防ぐ為の火打梁を作ったりと大忙し。身体中から汗が噴出してくる。久し振りに躍動する爽快感を味わう。明日も一日中休みなので、いよいよ組み立てにかかろうかと思っている。今は明日の作業のことを考え、何となくワクワクしながらこの原稿に向かっている。物を作ることは一緒でも、書の作品を作っている時にはこのような気分は味わったことがない。なぜか書を書く時はいつも、何かにせき立てられる様な気持ちになってしまうのだ。制作の喜びが湧いてくるような取り組みを、工夫することが私の書にとって、とても大切なことのような気がする。精神が集中する無心ではなく、精神が働かない無心があるというが、そのことに関係しているのではなかろうか。 今日は8月31日晴れ。朝からおにぎりを持って寸時舎へ。早速組み立てるための材木を取り出そうとしたのだが、必要な柱は積み重ねた柱や梁の一番奥の方にあった。それを取り出すためには手前にあるものを移動しなくてはならない。ところが狭い小屋に入れているので移す場所がない。そこで、その場所を作るために床板を小屋の外へ出すことにした。1列の半分くらい出して2列目を出すうちにその床板の奥に積んでいた胴縁や垂木が雨漏りの水を相当吸い込んで、ひどい状態のになっているのが見えてきた。たまらんなあ。危ないとは思っていたがこれほどとは、とにかく全部外へ出して乾燥させなくてはならない。 床板は厚さ3cm巾20cm長さ4mの杉板で1枚の重さは大したことはないのだが、30枚ぐらいを運び出したので汗はビッショリのどはカラカラになってしまった。ここで一休み。ポットに入れた麦茶がおいしかったこと。座ったついでに昼飯にした。いつもはおいしい弁当が、何だか気がせいて余りのどを通らなかった。ところが腹ごしらえがすんだところでいいアイデアが浮かんだ。立ち木の二又のところに物干し竿のように木を通し、それに両方から材木を立てかけたら、簡単に乾かせるだろうということである。手ごろなところに二又があり、通す木も造成のときに切った杉の木がピッタリと収まった。材木を立てかけてみると、垂木が少しかけられなかったがほとんどが収まってしまった。木を渡した、えごの木と小楢の木が痛まなければよいが、余り重量はかかってないようなので大丈夫だと思う。あとは強い風が吹かないように祈るしかない。 組み立てにかかろうと勇んで寸時舎にへやって来たのだったが、結局は運搬で今日も終わってしまった。まだ日は高かったが、気力体力が失せてしまって早ばやと家に帰ってきた。今までのことを振り返ってみると、運ぶ作業が実に多い。一人ですることの一番大変なのは、この運ぶことだ。時に一人では手におえないこともある。これからもまだ色々なものを運ばなくてはならない。 棟上はすみましたかとよく聞かれる。今年は雨が多くて、といい訳をしている。それでも9月中には完了させようと思っているが、果たしてどうなることやら。普通棟上は1日か2日で終わらせてしまう。ところが、私の仕事は寸法がちゃんと合っているのかさえ心許ないので、さっと建ち上がるかどうか心配している。一応、これまで手伝ってくれた方や、建ち上がるのを楽しみにしてくれている人達に、やっとここまでこれたということを報告したいので、9月15日が晴れたら棟上をしようと思っている。「暇がありましたら遊びがてら、どうぞ」。 強い陽射しの中、寸時舎はヒグラシが鳴き、栗の木も実をつけ、寂しげな静けさが漂っている。濃い緑の木々も少しずつ装いが変わって行くだろう。とても静かな美しさが始まろうとしている。いまはプロローグの時。 1993・10月 棟上風景 心配していた天気も上天気、いよいよ待望の棟上の日9時20分に内藤さんと長男の成一と3人で寸時舎へ。到着するとPTAで知り合った横山さんが来てくれていた。そして相談役の相原さんがお神酒を持ってニコやかに登場。早速乾杯。棟上の無事のために相原さんが基礎の4隅を清めてくれた。川内さん、中川さんと上田さん、田川の藤井さん、そして最近古賀で養鶏を始めた村山さんと、続々とかけつけてくれた。基山の坂口さんは、紅白の餅の変わりにと大福餅を作ってきての応援。 「さあ始めましょうか」のかけ声で作業開始。まず小屋の中に入れいていた柱類を運び出す。柱にはそれぞれ記号を入れていたので、どの柱がどこの柱かちゃんと解るはずであった。ところが記号の入れ方が不統一で、書いた本人が図面を見直さないと解らないというおそまつ。果ては同じ記号の柱が出てきて、頭はもうパニック状態。柱の上下や、向きもキチンと書いていなっかったので益々混乱。そして追い打ちをかける様に切り口がズレていたり、小さかったりと、手直し手直しで、恥ずかしさと気の毒さであっちウロウロこっちウロウロ。相原さんはやはり相談役である。上手に手直しをしてくれる。横山さんは工務店の監督さんで、威勢よくポンポンと仕事が進む。 最初に東側の一番高い壁面の柱を組み立てた。オイショのかけ声でみんなで柱を立ち上げ、それぞれの柱がうまいこと仕口に収まった時には、ホッとした。それから4間の長さがある北と南の壁面を、二手に分かれて組み立てていった。寸法の足りない間柱、高さが違った大引、見つからない間柱。ああ、なんていっていいか、情けない。石村さんご夫妻がはげましに来てくれた。こっちはあたふたとしている最中、ゆっくりと話す暇がない。大事な柱が見つからない。ちゃんと切り込みをしたんだから、ないはずがない。ああ、こんなところに重なっていた。こんな調子でどんどん時が経っていく。そして不思議なことに、段々と形が出来上がっていく。 「ここいらで一休みしましょうや」と棟梁の横山さんから声をかけられて、「ああ、休みにしましょう」ってな具合。心の余裕がどこにもみあたらない。お茶やビールでのどをうるおしながら、坂口さんの大福をいただく。休憩の間も柱のことが気になってしょうがない。図面を片手に、このAの記号はどこやろう。小文字のabcは何やろうと一生懸命に頭を整理する。失敗その一、墨入れは誰が見てもどこのものか解るように、秩序正しく記入すべし。 休憩をしていると後続隊の川波君、吉田さん、父親に娘の不二美に陽、そして家内が到着したので昼食にした。柱の立ち上がった床に、材木で即席のテーブルを作り、にぎりめしをパクついた。父は気持ちよさそうに、ビールや酒を飲んでいる。なごやかな一時だ。 腹ごしらえがすんで手始めの仕事は、必要もないのにめんどうな仕口で切り込んでいる西側の壁を立てることからだった。てこずるだろうと思っていたものが、以外にストッと収まったので、みんな感嘆の声。思わず拍手は、あったかな。今まで失敗の連続で肩身を狭くして小さくなって動きまわっていたのだが、少し顔が上を向いてきた。これで一階の四方の柱が全部立った。 さあ、いよいよ大梁を通す大仕事だ。仕口がちゃんと入るかとても心配だ。受ける柱の仕口が間違っていたので相原さんが手直ししてくれて、みんなで30cm梁を持ち上げ柱に落とし込む。カケヤで叩くとうまく収まった。5本目の最後の梁もピッタリと収まった。信じられない。こんなにうまくいくなんて思いもしていなかった。中川さんから「ちゃんと収まるけん大したもんや」といわれた。我ながら、もうバンザイだった。 西日本新聞の松尾さんも顔をみせてくれた。屋根を支える柱の取り付けになると慣れた人は身が軽い。腰つきも安定している。上田さんは楽しみで水車小屋を作ったりしているし、村山さんも鶏舎作りで大工仕事は慣れたもの、巾10pの梁の上をスイスイと歩いていく。私はといえば腰がひけこわごわと渡っていく。でもどうにか柱を全部立て終えた。時間も4時を過ぎていたので、もうこれくらいにしておこうかと思ったのだが、相原さんの、棟上だから棟木を1本くらいは上げときましょうの一言、1番高い所の棟木を1本通した。 こうして9月15日の棟上は、おいしいビールを飲みながら無事過ぎて行った。 1993・11月 棟の上がった姿と垂木ののった姿 今年はえごの木の葉が落ちるのが早かった。どうも虫がついたらしい。もうわずかに葉が残っているだけだ。周りの山の木々は随分と黄色くなってきた。静かに澄んだ山の空気に、木々の鮮やかな色彩が清々しく目に染みこんでくる。いつもの秋だが、やはり美しさは変わらない。いつもと違うのは、その深い瑠璃色の空を屋根の上に寝ころんで見ていることだろうか。 屋根がもう少しで出来あがるところまできた。コロニアルというスレートの屋根を3日かかって張った。とくに失敗もせずにキチンとできた。ここまでくると一段落という感じだ。それにしても9月15日の棟上は実に素晴らしい出来事だった。あの日のみんなの顔が熱気が、何かにつけて思い出される。自分で小屋を建ててみて初めて、棟上に紅白の餅をまいて祝う意味がわかった。建物は大工や左官や建具や様々な技術が集まって一つの家になるのだが、同時に大勢の力を合わせて家の形を造り上げるのは、棟上の時だけなのである。危険をはらんだ一気の力は、応に最高潮にふさわしいエネルギーだといえよう。頼むでもなく加勢にかけつけてくれたみんなには、今更ながら感謝の念がこみ上げてくる。 棟上の日に1本しか上がらなかった棟を全部上げてくれたのは、藝洲さん、王倫さん、新田さん、内藤さん、猗嶂さんの文化研究会の人達、それに泰蒼さんと岩佐さん。設計士の王倫さん以外はまったくの素人衆だったが、口八丁手八丁でワイワイと大工仕事を楽しんだ。9月19日に棟上は完了した。 10月は好天に恵まれ、いつも気持ちよく作業ができた。棟に垂木を通し、その上に屋根板を張った。そして防腐剤のクレオソートを塗る。思いのほかいい色が出た。藝洲さん王倫さん猗嶂さんがまた手伝ってくれたので、床の下に通す根太を取りつけた。藝洲さんにノコを挽いてもらったが「ノコがこんなに切れるもんとは知らんかった」と驚いていた。そこで王倫さん「これがプロの道具というもんよ」。1人ですれば1日仕事が1時間くらいですんでしまった。合いの手を入れながらポンポンと進んでいくのが共同作業の楽しいところか。ブツブツ独りごとをいいながらボチボチやるのもまたいいもんだが。 火打ち梁を入れ、屋根をのせて棟上のあとの作業はバラエティーにとんでいる。そしてやればすぐ目に見える形となって現れてくるので、どんどん作業がはかどっている様に感じる。時間もあっという間に経っていく。 昨日(10月30日)屋根を葺いていたら、相原さんが様子を見に来られた。順調な進み具合に合格点をもらった。そして小屋の姿がシンプルでいいとのこと。いつ頃出来あがるか聞いてみたら、春には出来あがるだろうということだった。作っている本人がいつ出来あがるのかわからないというのもおかしなものだ。屋根が出来るとあとは早いですよと聞いていたが今の気分はもう完成間近。ゆっくりと作業を楽しみたいというのもあるが、正直なところ早く完成させたいのが本音だ。 書のことも、否定的な書のことを書いて、ことばや論旨は不充分だと思うのだが、現在の自分の気持ちを吐き出してしまった。それで、実のところ書については何を書いても蛇足ではないかという気持ちが強くて、なかなか筆が進まない。最近は篆書、隷書そして清代の作家に興味があって、そのことも是非皆さんに紹介したいのだが、少々段取りが悪い。が、しかし、このまま突っ走ろう。篆書は原初の文字で、私の知識ではほとんど読めない文字ばかりといってよいだろう。しかし、金文・甲骨文の絵画的な文字には「素晴らしい」と手を叩きたくなる面白さがある。こんな造形の文字に出会ったら、みんな喜ぶだろうと勝手にきめこんでいる。私は金文を見るたびに、普段書いている文字が金文のように面白く書けないものだろうかと、思うのである。 面白いを連発しているが、皆さんはどういう時に面白いと感じられるだろうか。辞典によると、愉快である、喜ばしい、興味があるという一群と、趣がある、風流である、雅やかである,という一群がある。私は前群の意味あいで面白いを使うのであるが、とくに意外性のあるものに出会った時に面白さを感じているように思う。だが突飛なものには感じないようだ。同じ言葉でも人によって感じ方が違うので、ふと面白いという言葉が気になってしまった。それでは横道にそれながら筆を置くことにしよう。 1993・12月 書を学ぶ多くの人が殷や周の金文・甲骨文をはじめ、歴史的な貴重な書に接することなく過ごしてしまう事は、とても残念なことである。書をとりまく現在の情況は、他の分野と同じように断片化が進んでいる。漢字だけ、あるいは仮名だけ、また漢字でも行書、楷書、篆隷という様に分裂している。当然、個人の興味の方向にしたがって、草書のみを深く追求し作品化するということはあってもいいし、それも貴重な事でもある。だが今の時代性からすると、私達は書に関するあらゆる時代の幅広い情報を得ることができる。書にたずさわった人々のことを深く知ることもできる。これら多くの資料をもとに、書の全貌をつかみとる可能性は、以前よりまして大きくなっているのである。私はここで書を学ぶ者は篆隷楷行草の五体と仮名を書けなくてはならない、などとは決していうつもりはない。ただ与えられた目の前の書にしがみつくのではなく、自分自身の興味のもとに、面白い書を書く人が、少しはいてもいいのではなかろうかと思っているだけなのである。 書の歴史を観ていると、時代によってそれぞれに興味深い変化が起こっている。私は特に3つの時代が気になる。1つは漢の時代である。公式の石碑に刻まれた隷書体、そして実用的な木簡に見られる草章。この時代は文字が広く普及した時代である。2つ目は南北朝時代。王羲之を中心とした南朝貴族の典雅な行草体、そして北魏の像造記などに代表される表情豊かな楷書体。楷書が公式の文字として広まり、爨寶子や泰山金剛経など楽しい楷書が花開いている。3つ目が清代である。何紹基や金冬心などの金石(金文や石碑の文字)を研究した結果生まれて来た、風趣豊かな個性的な書が面白い。漢や南北朝時代は書体の変遷期であり、多種多様な書を楽しむことができる。また清代は書家としてどの様に滋養を吸収し、どう表現するのかを学ぶのに多くの資料を提供してくれる。私は特に何紹基の行書の独特な造形に目を奪われるのであるが、もし彼が隷書に接することがなかったら、決してあの形は生まれてこなかったであろう。楷書から行書を作るのではなく、隷書を学ぶことで生まれてきた行書であると感じている。 書は王羲之に始まり王羲之に終わるとまでいわれるように、王羲之の書は行・草書の典型なのである。縦長で胴がくびれたスタイルは、確かにスマートで粋である。しかし、もうそろそろ王羲之の呪縛から解き放されてもいい頃だと思う。王羲之が新しい形を工夫したように、私達も一人一人が工夫した新しい書を展開していったら、どんなにか書も面白いものになることだろう……。そのためには口に出してはならない言葉がいくつかある。「才能がない」「基本が身についてないのに勝手なことはできない」「どう工夫すればよいか教えて欲しい」このように言ってしまったら、もう終わりである。と、いうものの石を投げなければ波紋は起こらない。そこで隷書である。 私達は楷書を基本に書を見る癖が身についてしまっている。その癖をとることが必要である。隷書は癖をとる役割を果たしてくれる。篆書だと今の字から形が離れすぎていて、その役割は果たせない。何紹基の例から、隷書を学ぶことは独特の雰囲気をもたらす可能性がある。隷書の水平垂直方向への運動は、ゆったりとした大らかさを感じさせる。隷書のもう一つの特徴である横画をはね上げる八分は楷書の右払いへと変化していく。隷書にも八分が強調されているものと、そうでないものがある。礼器碑、乙瑛碑、曹全碑などは八分が美事である。石門頌、西狭頌、張遷碑などは八分が目立たない。私は八分が強調されていないものに魅力を感じている。力が内包されてゆったりと流れていくリズムがなんとも心地よいのである。この調子を日頃の文字の中に取り入れていくと、何か気持ちのよい字が出てくるのではないかと思っている。 殷、周の甲骨金文の絵画的な面白さに比べると漢の隷書は、地味な存在かもしれない。特に八分の少ない隷書は素朴で微妙な味といえよう。篆書と隷書、しばらくはじっくり味わってみようと思っている。 今日、寸時舎の葉っぱは、黄色く燃えて、それがとても新鮮だった。 1994・1月 寸時舎もすっかり木の葉が落ちて、白い空が明るく澄みわっている。 木々にまだ色どりの鮮やかな葉っぱが残った12月の初めの頃、山にいる喜びに満ちていた。その日もいつものように山に来て、庇を付ける作業をしていた。一段落して、ゆったりと椅子に腰をかけ黄色くなった木々を眺めていた。まだ暖かい陽射しが当たっている向かいの山の斜面や、青空を見ていると、ふととても静かだということに気がついた。谷川のせせらぎの音、鳥たちのさえずり、かすかにゆらめいている竹の葉。遠くの方で飛行機の音。みどりの木々の中に燃えるように輝く黄色い木々。美しいものたちが静かの溢れていた。次の日は、外壁の板を張った。やはりおだやかに日は射していて、わずかに木の葉がゆれていた。昨日黄色だった小楢の葉っぱが今日は深いレンガ色に変わっていた。この微妙な色の移ろい。誰の力でもなくただ自然に変わっていく。当たりまえのこととはいえ、この美しさ、何という喜びであろうか。次の日もやはり空の澄みわたった静かな日だった。ホウ白がトーンの高いやさしい声で鳴いている。粋なヤマガラは相変わらず木をつつき,ハスキーに濁りながらジェイッ、ジェイッと鳴いている。豊かな山の静けさである。 小屋を建て始めてから2回目の正月を迎えた。イメージし、そして設計図に描いた小屋は、出来上がってくるにつれ想像以上の大きな建物になっていく。雨宿りのできる一寸した小屋を思っていたが、毎日をここで過ごさないと勿体無いような気がする。これからは大いに寸時舎を利用し、書の真理を目の前に見えるもののように明解に展開していきたいと思っている。何をするにしても現実と幻想があって、私達は現実を生きているのか、幻想を生きているのか、はっきりとしない混沌とした世界をさまよっている。夢という名の幻想を抱くことにより、明日への活力を得ることはできるのだが、夢はいつまでも夢であって現実ではない。現実のありのままをしっかり見つめ、今ここで自分のできることをやらなければ、時を失うことになるだろう。書の真理をつかむのも、今のこの瞬間にしかないのである。明日はないのである。書を学んでいればいつかは解るだろうということではないと思う。 私はこの「書のこと」を書き始めた時、書は人生のすべてではなく、人生の一部であると思うようになっていた。書家であることが嫌で、そのことから逃げ出したい気持ちで一杯だった。良寛を学び、守一の生涯を垣間見、様々な書を見るにつけ、書家の書の貧しさに嫌気がさしていたのである。ところが先月の「書のこと」を書いてから、書を書くことの面白みが変わってきた。書を探究するものが書家であるなら、書家も悪くはないと思えたのである。人生の一部であると思っていることは変わらないが、今までちらちらしていた、良寛のようにとか、守一のようにとかいう気持ちがすっかり抜けてしまった。自分の字を書こうと思っている。様々な書を見つめることで自分の書を作り上げていこうと思っている。これは誰でもが、やってきたことであるが、私にしかできないことも沢山あるだろうと思えるのである。まさかこの様な考えに至るとは思いもしなかった。もっと書から離れたところに立っているのではないかと思っていた。 ところで、書家として文字の研究をすることの重要性を改めて実感しているが、かといって書ばかりみていればよいとは決して思わない。自然とは何かを実感しょうと、求めて入ってきた山の中である。これから寸時舎でじっくりと、自然を見つめていこうと思っている。人為的な技術と、自然の美しさを感受することは、それぞれ収まりどころが違うのである。そのところを誤解しないようにしなければならない。とはいうものの、感受性が豊かであれば、おのずから収まるべきところに収まっていくものだと思う。 元旦に寸時舎での初仕事をした。暖かい気持ちのよい一日だった。北面の外壁がやっと仕上がった。思った以上の出来映えで、大いに満足している。巾18p厚さ1.5pの板を縦に張り、板と板の間に目板とよぶ巾4p厚さ2.5pの板を張っていった。ごつごつしているがボリュームがあってとても美しい。そして、張るのが簡単なのが嬉しい。 1994・2月 「書のこと」を書きはじめて2年が経ってしまった。先のことなど考えなしに思いつきで始めたもので、まさか2年も書こうとは思いもしていなかった。山小屋の完成の時が「書のこと」の完了の時と考えていたもので、長くなってしまった。しかし、じっくりと書のことを考えることができ、私にとっては意義深い二年間だったと思っている。4月には寸時舎も完成するだろうと思っていたが、今の進み具合だとまだまだ時間がかかりそうだ。主題の書のことは迷走を重ね展開も不充分ながら先月号で結語してしまった。伴奏の小屋作りは間をはずしっぱなしで、いつ終わるとも知れない。このまま「書のこと」を書きつづけることは一寸無理なので、一応ここらあたりで区切りをつけたいと思う。これまで書について思いつくままを紹介してきたのであるが、幕を下ろす前にこれからの書について、考えていることを述べておきたいと思う。 現在の書は公募展を中心に動いている。日展や様々な展覧会に出品する事で技術を磨き、そして評価を受け、その展覧会運営に参加しながら書家としての地位を築いていくのである。そこに燃えているものは、激しい競争のエネルギーである。この「淡遠」のような競書雑誌も同じく競争原理で運営されている。つまり目の前に目標を与え、到達することの喜びと、その努力を誉めたたえることで生きがいを与えるのである。この方式は世界のあらゆるところで行われている教育方式といってもいいだろう。スポーツも芸術もすべてそうなのである。私はこの事に疑問を感じている。これが最良の方法なのだろうか。競争せずに、努力をせずに、学ぶことはできないのだろうか。 芸術は美の創造そして発見であり、書もまた同じである。創造することは身体が生きいきとし、とても楽しい事である。私は5回ほど個展をしたことがある。今思い出すとどれもが適度な緊張感があって、充実していた。苦労というようなものは、残っていない。美を創造したとは言い切れないが、創造することの何かは味わえたように感じている。個展に比べると日展や県展に出品していた時の心理状態は、とても創造するという心境ではなかった。その時は自分を追い込む事が真理へ近づける、最良の方法と考え、誉められることを願ってガムシャラに、欲望を紙にぶつけていた。書くことの楽しさなんてどこにもなかった。書の作品作りに創造を実感している人がどれほどいるだろうか。多くの人が創造することに真剣になれば、書ももっと面白くなるだろう。もっと生きいきとしてくると思う。創造ということを考える一つのきっかけとして個展がある。まとまった点数を制作すると、ただ練習をするという意識とは別のものが自然と生まれてくると思う。ただ作るということだけのエネルギーが生まれてくる。残念なことに書の場合は、個展の数が極端に少ない。師弟の意識や団体の意識が強く、個人の意思が尊重されていないからだろうか。個展をするといっただけで大騒ぎになる。もっと個展をやりやすい環境を作っていくということも、これからの書にとって大切な事である。長年書を学んできた人は個展をすることを考えてみてはどうだろうか。真価を問うというような、そんな大袈裟なものでないほうが面白いかもしれない。様々な書表現を楽しみ、自分らしさを振り返り、そして出来たものを自分の目で見つめてみる。ただそれだけでよいと思う。私達は余りにも周りを意識し、結果を気にし、得点が何点であるかということを、重要に考える生き方に慣らされてしまっている。自分のことを自分の目で見るという、たったこれだけの事ができなくて、より大きなのもに身を任し、点数をもらって安心してしまうのではなかろうか。何の点数か解らないような点数をもらって安心するという、この様な習性に別れを告げて、自分一人の歩みというものを考えてみてはどうであろうか。 寸時舎も2年前とはすっかり様子が変わってしまった。自然が作ったものに変わって私が作ったものが一番目立っている。 何もせずに鳥のように生きていけたら、どんなによいものか。自分の生もなく、他人の生もなく、ただ生だけがあるような。 この小さな寸時舎で、自分の生の証を懸命に刻みつけようとしている自分が、一体何物であるかわからない。自然にとって異端者なのか、あるいは一部なのか。それとも全部なのか。 昨日、寸時舎で雨の音と鳥のざわめきを、ボンヤリと聴いていた。 |